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特集 vol.313
神社で楽しむ
NHK大河ドラマ
『どうする家康』
まさに「どうする」の連続! ド級の転機続きの家康の生涯を描いたNHK大河ドラマ『どうする家康』。最終回を迎える前に、ゆかりの神社を巡ってみませんか。

【静岡・静岡市/静岡浅間神社】
家康の思い出の地、終焉の地


家康ゆかりの神社として必ずその名が上がるのが静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)。この神社のそばにある駿府城周辺に今川氏の屋敷があり、家康は今川氏の人質として19歳までの12年間を過ごしました。静岡浅間神社は、今川氏から230年にわたり崇敬を受けてきた神社であり、今川義元が烏帽子親となった家康の元服式もここで行われました。
さらに、家康が39歳のころには、戦勝祈願の上、神社の背後に合った武田方の拠点を攻めるために社殿を焼き払い、後に社殿を再建。生涯にわたって篤く崇敬し、歴代徳川将軍の祈願所となり江戸幕府から庇護されていました。


家康が晩年を過ごした駿府城の跡地(駿府城公園)は、静岡浅間神社から徒歩15分。

家康は征夷大将軍を退いた翌年には再び駿府城に戻り、この地で晩年を過ごしています。家康が駿府城を終の棲家として選んだ理由は「温暖で気候が良かったから」「米がうまいから」など諸説ありますが、ここが思い出の地だったからとも考えられます。
ドラマでは今川義元(野村萬斎)は家康(松本潤)を息子のように扱い、義元の嫡男氏真(溝端淳平)とは兄弟のように育った間柄。そして、瀬名(有村架純)と出会ったのもまた駿府でのこと。「どうする!」という決断も迫られたことのない和やかな思い出があるこの場所に、晩年を迎えた家康は呼び寄せられたのかもしれません。


現在の社殿は文化元年(1804年)から60年もの歳月をかけて再建されたもの。26棟もの社殿が国の重要文化財に指定されています。

【静岡・掛川市/龍尾神社】
今川氏真との対決の地


『どうする家康』前半の山場のひとつだったのが家康と今川氏真(溝端淳平)が決着をつけるシーン。
氏真はエリート一族に生まれたお坊ちゃんですが、ドラマでは瀬名をとられたことや、父義元から家康と比較されたことから家康にジェラシーを抱いていました。
氏真が家康と対決したのは、父が戦死し、家康が裏切り、配下の領主の離反も相次ぎ、ついに武田信玄に本拠地の今川館を奪われるというどん底コースの最底辺というタイミング。


掛川城は、室町時代に今川氏が家臣の朝比奈氏に命じて築城。氏真の降伏後は、山内一豊が城主として在城したことでも知られています。

堅牢な掛川城に立て籠もった氏真を攻め落とすために、家康は城の周りにいくつもの砦を築きました。そして戦が佳境となった最後に家康が本陣を置いたのが龍尾山牛頭天王、現在の龍尾神社(たつおじんじゃ)です。

ドラマでは、家康が掛川城に侵入し氏真との直接対決を果たし、「死んでほしくないからじゃ! 今も兄と思っておるからじゃぁ!」と家康が叫んだのをきっかけに氏真とのわだかまりが解け、氏真は降伏することになります。

実際にはこんなシーンはなかったのでしょうが、家康が氏真に情があったのは確かなようで、大名の座を剥奪された氏真を庇護し、晩年になると交流を深めたとも伝えられています。


龍尾神社は、掛川城の北東に位置。鬼門を守る守護神として、歴代城主の崇敬を受けていました。

【静岡・富士宮市/富士山本宮浅間大社】
信長の富士山遊覧の宿所


武田家を滅ぼした信長(岡田准一)は富士山遊覧をしながら安土城へ帰ることにし、その道中を案内したのが家康でした。
家康は、信長を最大限にもてなすために行く先々に陣所や豪華な食事を用意したと言われています。なかでも富士山本宮浅間大社 (ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)に設けられた宿所は、金銀をあしらった豪華なつくりだったとか。そんな豪華な宿で一晩体を休めた信長は、もてなしのお礼として家康に秘蔵の刀と馬が贈ったと伝えられています。


富士山本宮浅間大社からの富士山の眺め。天下一の眺めに信長は

富士山本宮浅間大社と家康の関わりはそれだけではありません。天下分け目の関ケ原の戦いで勝利した家康は、お礼として本殿・拝殿・楼門をはじめ30棟以上を造影し、境内を整備しました。江戸時代の数度に渡る大地震で崩壊した社殿も多いものの、今でも本殿、幣殿、楼門が現存。その姿を見ることができます。


境内には御神木の桜の木が植えられ、春には華やかな景色が見られます。

富士山本宮浅間大社は、1300余の浅間神社の総本社。富士山の8合目より上はこの神社の境内地として知られていますが、これも家康の裁量が関わっています。家康は富士山登拝者が山頂の噴火口に投げ入れたお賽銭を、浅間大社の社殿修理費にあてることを決めたのです。つまり、富士山は浅間大社の管轄だと家康は認識していたということ。
この決定が安永年間に起こった富士山の所有権を巡る論争で、富士山本宮浅間大社の境内地として認められる決定打になったのです。