1. 【埼玉・深谷市/諏訪神社】栄一のふるさとへの思いを体感
2. 【東京・台東区/上野東照宮】『青天を衝け』のキーマン・慶喜を祀る
3. 【東京・北区/七社神社】“日本経済の父”となってからの栄一に親しめる
このドラマが始まるまで、渋沢栄一は「大きな会社をたくさん作った人」「次の1万円札の人」なんて、ふんわりした知識しか持たない人も多かったのではないでしょうか。スタートしてみると、幕末から昭和にかけての激動の時代を描くのにこれほどまでに最適な主人公もいなかったのでは、と思わせる見ごたえのあるドラマが展開されてきました。
そんな栄一の生まれ故郷、埼玉県深谷市にある諏訪神社(すわじんじゃ)は、栄一が生まれた旧血洗島村の鎮守。
秋の例大祭で奉納される「血洗島獅子舞」は、栄一も舞ったことがあり、晩年は祭りに合わせて帰郷し、獅子舞を楽しみにいていたそうです。さらに、現在の拝殿は栄一が寄進したもの。境内には栄一の喜寿を記念し、村民が建てた石碑もあり、ふるさとと栄一のつながりを深く感じさせてくれる神社です。
周辺には、栄一の生家である旧渋沢邸「中の家」や渋沢栄一記念館など、ゆかりのスポットがたくさんあるので、1日かけて巡ってみるのもよさそうです。
『青天を衝け』のなかで、抜群の味わいを醸し出していたのが草なぎ剛演じる徳川慶喜ではないでしょうか?徳川慶喜といえば「名君」なのか「暗君」なのか、評価が分かれる将軍です。その心のうちを、草なぎ剛は、“静”の演技で見事に演じて、吉沢亮演じる主役・渋沢栄一とともに物語をひっぱってくれました。また、第33回「論語と算盤(そろばん)」では、大政奉還し歴史の表舞台から姿を消した慶喜が、洋装姿でひさしぶりに登場し話題になったのは記憶に新しいところです。
慶喜ゆかりの神社として紹介するのは東京・上野の、上野恩賜公園内にある上野東照宮(うえのとうしょうぐう)です。寛永寺の敷地内にあった「東照社」が、上野東照宮のはじまり。正保3年(1646年)に、朝廷から宮号を授けられて「東照宮」となり、日光やほかの東照宮と区別するために、上野東照宮と呼ばれるようになりました。
よく知られているように、東照宮は、徳川家康公を東照大権現として祀る神社ですが、上野東照宮の御祭神には、家康公に加え、吉宗公と慶喜公が祀られています。社殿は三代将軍家光公が造営したもので、寛永寺が焼け野原になった上野戦争でも戦火を免れ、その後の関東大震災や第二次世界大戦でも倒壊することなく今にいたります。
慶喜は鳥羽伏見の戦いから離脱したのちに、寛永寺で謹慎していました。大政奉還が間近に迫るなか、何を思い上野の地にいたのでしょうか?嵐のような時代の流れのなかで、心の中にも嵐が吹き荒れていたのか、それとも覚悟を決めた凪のような心持ちだったのか・・・。慶喜の心の中に思いを馳せながら、上野東照宮で手を合わせてみたいものです。
東京都北区にある飛鳥山は、8代将軍徳川吉宗が江戸の庶民が楽しめる場所として桜を植樹し、江戸っ子たちのレジャースポットとして賑わったことで知られています。その後飛鳥山公園として整備され、日本初の公園として登録され、いまも市民の憩いの場として親しまれています。
明治12年(1879年)、栄一はこの地にグラント将軍をはじめとする内外の賓客を招く場として別荘を築きました。明治34年(1901年)には、本邸として家族で過ごす憩いの場となり、深く飛鳥山に親しんでいました。
飛鳥山のすぐお隣に位置する七社神社(ななしゃじんじゃ)は、栄一が氏神として崇敬していた神社です。栄一揮毫の社額や掛け軸が神社に納められているほか、社務所は栄一をはじめとする人々からの寄付により建設されたもの。また、飛鳥山別業南園にあった松が枯れたことを悲しんだ栄一が自ら揮毫して建てた「枯松を祭る文の碑」も境内に移設され、拝観することができます。
渋沢家の邸宅の大部分は、昭和20年(1945年)の空襲で消失してしまいましたが、飛鳥山公園には庭園や書庫や接客の場として使われた青淵文庫、晩香廬が残されています。また、公園内には栄一の活動を紹介する渋沢史料館もあり、飛鳥山全体が「近代日本経済の父」と呼ばれる栄一の人となり、活動を感じ、知ることができるスポットになっています。