“せごどん”見てますか?
イケメンすぎないイケメン、鈴木亮平さんが好演中の『西郷どん』。幕末スターの勝海舟や坂本龍馬とも出会い、ますます盛り上がっていますね。
今回は、江戸編でも登場していた島津藩邸があった品川周辺がテーマ。品川駅付近を南北にのびる旧東海道の周辺は、薩摩藩が多数の藩邸を持っていたエリアです。吉之助も歩いたに違いない場所を、古地図と照らし合わせながら巡ってきました。
当日、スタッフが待ち合わせしたのは、品川駅高輪口の向かいにあるマクドナルドの前。国道15号(旧東海道)の向こうに品川駅が見えますが、目の前の景色が200年ほど前には海だったと思うと、なんとも不思議な気持ちになってきます。待ち合わせの場所とお隣のSHINAGAWA GOOSあたりは、薩摩藩の下屋敷跡。島津斉興が斉彬に跡を継がせまいとした「お由羅騒動」の際に、斉彬が幕府に隠居を命じられたのがこの場所です。さらに、「お由羅騒動」ののちに斉興とお由羅が下屋敷に住んでいるシーンも描かれていました。
下屋敷跡で集合したあとは、古地図にも「高山稲荷」として載っている高山稲荷神社(たかやまいなりじんじゃ)へ。江戸時代後期に刊行された『江戸名所図会』には、小高い丘の上にあるように描かれていますが、案内板によると明治時代に毛利公爵が邸宅を建てるにあたり現在地の寄進を受け、現在地へ移されたとのこと。明治天皇が京都から江戸へ遷都するときには当社で休み、野点をしたとも記されていました。
高山稲荷神社を出たら、国道15号を北上して薩摩藩の蔵屋敷跡へ。蔵屋敷とは、江戸の藩邸で消費する物資や年貢米、売却用の特産品を保管する倉庫兼藩邸のこと。薩摩藩より送られた荷が水揚げされていたため、西郷隆盛も、ここから陸にあがり薩摩藩邸に入っていたのかもしれません。
三菱自動車の本社が入る第一田町ビルの前には「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地」の石碑も建てられています。そう、ここは物語の後半の山場となるはずの、江戸城無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」がおこなわれた場所でもあります。
石碑があるビルの裏には御穂鹿嶋神社(みほかしまじんじゃ)があります。当社は、港区芝の本芝とよばれるエリアの産土神。本芝は、古典落語の『芝浜』の舞台としても知られています。1964年ごろまでは、神社の前までが波打ち際で雑魚場として江戸の魚が揚がる場所でした。
最後は、江戸編でメインの舞台となった薩摩藩上屋敷跡へ。古地図で「薩摩宰相殿」と記されている場所です。江戸に薩摩藩邸は少なくとも6カ所あったと言われており、なかでも、この三田の上屋敷は約2万2000坪以上の敷地がありました。
斉彬や篤姫が江戸に入ったときもまず三田の藩邸に住んだとされています。『西郷どん』第10回の「篤姫はどこへ」で篤姫が失踪したときも、三田の藩邸から失踪したのでしょう。劇中では、吉之助が海辺でたたずむ篤姫を見つけていました。三田藩邸から近い海辺といえば蔵屋敷のあった田町駅前のあたりかもしれません。
現在の藩邸跡は、NEC本社ビルの一部をふくむオフィス街になっています。芝三丁目の交差点をNEC本社ビル沿いに左折すると「薩摩藩邸跡」の石碑。石碑から北に「芝さつまの道」を進むと、左手に島津氏の家紋「丸に十の字」が記された碑がひっそりと建っています。
上屋敷は、安政の大地震で被害を受け、篤姫たちは渋谷の藩邸に引っ越し。慶応3年(1868年)には、幕府による江戸薩摩藩邸の焼討事件で焼失してしまいます。家紋が記された碑の裏側には、「明治初年には屋敷あとのあちこちに はらっぱや空き地が残り 人々は薩摩の原っぱと呼んでいた」と焼失後の様子が記されていました。劇中で斉彬や篤姫、吉之助が笑い、泣き、必死に生きていたシーンが思わず浮かんで、なんだか寂しい気持ちになってしまいました。
これから物語の舞台は、ふたたび江戸へと移っていきます。激変の時代をドラマで観る前に、古地図をもとに江戸を歩き、幕末気分を高めてみてはいかがでしょうか。