ローカル線伊勢鉄道の無人駅、河原田駅から徒歩20~30分。鈴鹿川にかかる鈴鹿大橋近くの住宅街を入って行くと見えてくるのが、伊勢国一宮・都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)。鳥居前には「都波岐神社」「奈加等神社」という2本の社号標が建っています。社号表が示すとおり、ふたつの神社が合併してできた神社です。
2社が創建されたのは、雄略天皇23年(479年)。地方行政組織「伊勢国造(いせのくにのみやつこ)」により、当時の伊勢国河曲郡中跡村(現在地、鈴鹿市一ノ宮町)に社が建てられたのがはじまりです。
都波岐神社は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、奈加等神社は中筒之男命(なかつつのおのみこと)と天椹野命(あまのくののみこと)を祀っていましたが、明治時代に合併し、現在はひとつの社に3柱の神さまが鎮座されています。
このような事情から御朱印は、都波岐奈加等神社に加え、都波岐神社、奈加等神社のものもあるのだとか。御朱印を集めている人は、どれをいただくべきか迷ってしまいそうですが、伊勢国一宮は都波岐神社。一宮巡りを目的にしているのならば、都波岐神社または都波岐奈加等神社をいただくのがよいでしょう。
一方で、神社を守っているのは、奈加等神社の御祭神・天椹野命の子孫である中跡家。現在の中跡兼男宮司は、なんと58代目。そのゆるぎのない歴史に圧倒されます。
歴史ある神社には、社宝がつきもの。都波岐神社・奈加等神社の社宝は、弘法大師が奉納し織田信長の兵火もくぐりぬけたという、ふたつの獅子頭です。この社宝により獅子舞が広まり、周辺地域では4つの流派で獅子舞踊りが競われてきました。都波岐奈加等神社が伝承してきた中戸流は後継者不足によりこの10年間は途絶えていましたが、町の獅子舞保存会との協力により今年から復活する、といううれしいニュースも中跡さんから伺うことができました。10月6日の秋季例大祭で、この獅子舞を見ることができます。
出石は『古事記』『日本書紀』にも登場する古い町。但馬国開発の祖神・天日槍(あめのひぼこ)が開いたとされる地です。町の中心は戦国時代に山名氏が築いた出石城で栄えた城下町。そこから2qほど北の方角へ向かっていくと但馬国5社のうちのひとつであり但馬国一宮・出石神社(いずしじんじゃ)があります。地元では「いっきゅうさん」と呼ばれ親しまれています。
出石神社は、新羅(しらぎ)の国の王子・天日槍が祖国から持ってきたとされる8つの宝物を伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ)と呼び、御祭神として祀っています。
そして、地元に残る言い伝えの中に、天日槍に関する伝説があります。それは昔、天日槍が一面泥の海で不毛の地だった但馬国を切り開き干拓に成功。大きなのぼりを立てて神社のある地・出石宮内に帰還したというもの。
神社では毎年5月5日の子どもの日、この伝説にちなんだ特殊神事「幟(のぼり)まわし」がおこなわれています。
「幟まわし」は、氏子たちがそろいの衣装に身を包み、さまざまな絵柄ののぼりを立てまわすというもの。この一隊は、竹ぼらの音に合わせて神社の前でのぼりをまわしたあと町に出て、その年に男の子が生まれた宮内の家々を戸別にまわり、子供たちの誕生を祝うのだそうです。
出石神社とともに、但馬国5社のうちのひとつに数えられ但馬国一宮でもある粟鹿神社(あわがじんじゃ)。粟鹿川の南にある神社で、創建は不詳。対馬国随一の古社で、2000年以上の歴史をもつといわれています。粟鹿という名前の由来は、その昔、粟鹿山の洞穴に住む鹿が粟3本をくわえて村にあらわれ、人々に農耕を教えたという伝説から。その鹿を祀った、または粟鹿山の荒ぶる神を祀ったことがはじまりともいわれています。
主祭神は日子坐王(ひこいますのみこ)、彦火々出命(ほおりのみこと)、阿米美佐利命(あめのみさりのみこと)の3柱。
毎年10月17日におこなわれる秋の例大祭では、この神社独特の儀式「瓶子(へいじ)渡し」、別名「さあござれ」が知られています。この儀式は、麻の裃を着た4名の当人と呼ばれる男性が、本殿の階段上下に1人ずつ立つところからはじまります。下の1人が柿・茄子・稲の入った三宝を持ち「右ですか?では右から、さあ」「さあ」「さあござれ」と階段上の人と左右に差し違えながら歩み寄り、合ったところで三宝を手渡して神さまに奉納するというもの。ときには時事ネタを交えて会話をしながら、なかなか上下で合わないように時間をかけながら差し違えます。周囲のギャラリーはそれをはやしながらと、微笑ましい神事として毎年続けられています。
境内にはほかに天満宮、厳島神社、茗荷神社、床浦神社、稲荷神社、猿田彦神社を配しお参りどころもいっぱい。粟鹿山の厳粛な空気を感じられる古社です。