「日本一の型破り男」として数々の伝説を残した、織田信長。本能寺の変でクーデターに倒れた彼は、徳川家康、豊臣秀吉と並ぶ戦国時代の三英傑のひとりです。
戦をくぐり抜けながら、規制緩和やグローバル化をスピーディにおこない、中央集権的な国づくりで戦国時代の終息を目指した信長公は、まさに革新的なリーダーでした。
時は下って明治2年(1869年)、明治天皇が信長公の功績をたたえ、神社創建の命を出し創健されたのが、京都・船岡山の建勲神社(たけいさおじんじゃ)。一般的には「けんくんさん」の呼び名で知られています。
船岡山は、もとは秀吉公が信長公の御霊をなぐさめるため寺院をつくろうとした場所。その計画は理由不明のまま途中で終わりましたが、その後、明治時代に神社が創建されました。
標高112mの史跡で、応仁・文明の乱などたびたび合戦の舞台となりました。神社境内と、隣接する船岡山公園には、応仁の乱の際、西軍の陣が築かれた跡が残っています。公園、そして神社から見下ろす京都の町はまさに絶景です。
信長公が京へのぼったのは、永禄11年(1568年)。正親町天皇の勅命により、戦乱の世で荒廃した都の再興に尽力しました。信長公が上洛した10月19日を記念して、神社の創建当初からおこなわれているのが船岡大祭です。毎年、仕舞「敦盛」や舞楽の奉納のほか、年によって、信長公にちなんだ奉納もおこなわれます。なかでも珍しいのが、不定期で奉納される境内での火縄銃の実演奉納です。
信長公といえば、よいと思った新しい文化・技術をどんどん取り入れる先駆者。長篠の合戦では、伝来間もない鉄砲を1000丁も導入したといわれ、新戦法・三段撃ちを披露。武田の騎馬隊は、あっけなく殲滅したと伝えられています。その史実から、船岡大祭で火縄銃の実演奉納をおこなうようになりました。
甲冑を着用した火縄銃保存会のメンバーが、三段撃ちのごとく次々と空砲を撃つ実演は大迫力。立ち昇る煙とともに、周囲は歓声でわきます。
実演のあとには、火縄銃の仕組みの解説や、実際に銃を持つ体験ができるとあって多くの人が訪れるのだそう。2017年は10月19日(木)の船岡大祭にて、4年ぶりの火縄銃演武奉納が11時よりおこなわれます。
信長公が「日本一の型破り男」なら、豊臣秀吉公は農民から天下人までのぼりつめた「日本一の叩き上げ男」ではないでしょうか?彼もまた、戦国武将の三英傑のひとりといわれますが、合戦で腕の立つ武士だったというよりは、人望が篤く智略に長け、人を動かすのが得意なニュータイプのリーダーだったようです。
そんな秀吉公を祀るのが大阪城公園内にある、豊國神社(ほうこくじんじゃ)。
創建は近代になってから。明治天皇の御沙汰により明治13年(1880年)に創立されました。最初は市内北区中之島の地でしたが、昭和36年(1961年)、現在の場所に遷座されました。
大阪城の天守閣を眺めつつ拝殿へと向かう途中、鳥居をくぐる前に目をひくのが、総高5.2mの秀吉公銅像です。
この銅像は太平洋戦争のとき、鉄材供出で一度失われた銅像を修正・復元したもの。右手に軍配を持ち、陣羽織を羽織った堂々とした立ち姿。自信と落ち着きに満ちたまなざしが印象的で、思わず見入ってしまいます。
この力強い銅像は、崇敬者の寄付により制作されました。本人が「せっかくなら超一流の作家へ」と、自らが作者を選定。薩摩国の武将・島津義弘像などで知られる、日本を代表する彫刻家・中村晋也氏に制作を依頼したものです。さすが超一流。圧巻のお姿です。
また、豊國神社は「日本一の叩き上げ男」秀吉公の出世運にあやかり、出世開運・仕事運上昇を願って訪れる人が多く、御守りも種類が豊富です。秀吉公の馬印(合戦時の陣の目印)、瓢箪をモチーフにした出世瓢箪、瓢箪の形をした金運守りなど豊國神社ならではのアイテムがそろいます。
より壮大な立身出世を願う人には、秀吉公独自のデザインが光る「一の谷馬蘭後立付兜」の本格的な鉄製ミニチュア・出世カブトもあり。力強い縁起物です。
2016年4月、熊本を襲った地震によって甚大な被害を受け復旧中の名城・熊本城。
近代につくられた石垣が崩れ、城の瓦が落ちるなか、築城の天才といわれた加藤清正公が手掛けた石垣・宇土櫓(やぐら)がほぼ無傷だったことは、日本中を驚かせました。
その熊本城内にあるのが、加藤清正公を祀る加藤神社(かとうじんじゃ)です。
神社は、被災後しばらくは参拝者が立ち入ることができませんでしたが、現在は一部通行止めの場所を残しつつ、一般参拝ができるようになりました。
熊本城と熊本の基礎を築いた加藤清正は「せいしょこさん」と呼ばれ崇められている、地元のヒーロー。もともと肥後の国・隈本を、城の完成とともに熊本と改名したのも清正公です。
余談ですがゆるキャラ「清正(きよまさ)くん」も、くまもんに次ぐ熊本の人気もの。
そして清正くんもかぶっている、清正公のトレードマークが長鳥帽子兜。味方の士気を上げ、敵を威嚇するためともいわれる高さのある変わり兜です。彼が身長丈六尺三寸=190cmもある大男と伝えられているのは、この兜をかぶっていたからという説も。
豊臣秀吉の家臣として忠義を尽くし、武勇を馳せた人物だった清正公は、とにかくデキる男でした。武勇伝・築城の腕もさることながら、土木治水・開墾工事、街道など交通網づくり、学問・文学・焼き物など産業の奨励など、私欲を捨て肥後のために心血を注いだ彼の人徳が、のちの明治元年(1868年)、神格化され神社に祀られることになったのです。
毎年7月第4日曜におこなわれる「清正公(せいしょこ)まつり」は、熊本県にはなくてはならない祭り。神幸行列は、県民の多くが参加し街中がにぎわいます。長鳥帽子兜をかぶり、片鎌楯を持ったたくさんのキッズ清正公が「エイエイオーッ!」と叫びながら練り歩く「千人清正」は、かわいさ満点です。