いよいよ最終章に突入している『真田丸』。織田信長があっけなく出番を終えたり、関ヶ原が“超高速”で描かれたりしたことからも、どんな最後が描かれるのか興味深いところです。
最終回に向けて気持ちを盛り上げるべく、編集部が最初に向かったのは『真田丸』の最初の舞台となった岩櫃(いわびつ)城跡です。
岩櫃城は、岩櫃山の中腹にあり関東を代表する山城だといわれていました。武田信玄の命令により真田勢が攻め落とし、のちに幸村も少年時代を過ごしています。第1回『真田丸』でも、真田昌幸が主君である武田勝頼に自らの居城である岩櫃への撤退を進言していましたが、勝頼はこれを受け入れずあっけなく滅亡していましたね。
登山道の入り口から岩櫃城本丸跡までは、20分ほどの距離。
一見普通のハイキングルートですが、中城の扇状地があったり、土塁や深い掘りのあとなどが見られたり、城跡の痕跡をあちこちに見ることができます。プチ登山と城跡を満喫したあと、ふもとへ降りて見つけたのが岩櫃神社の看板です。
「真田家にゆかりがあるはず」と、観光案内所の人に聞いてみると「元々は忍者の活動拠点だったとも、人質などを幽閉しておく場所だったともいわれています」と教えてくれました。
忍者といえば寺島進さん演じる出浦昌相。隠密集団を操る武将で、陰から真田家をささえた実在の人物です。極道を多く演じてきた寺島さんは、静かな殺気を漂わせて戦国時代のアウトローも好演されていました。
あの出浦や佐助が活躍していた場所かもしれないと思うと期待も高まり、参拝してみることにしました。
行く道はのどかなあぜ道。3、4分ほど歩くと畑の中にそこだけこんもりと木々が茂る小さな社に到着しました。案内版などはなく御祭神は不明。木々だけが社をしっかりと守っているようでした。
岩櫃神社を出たあとは、名胡桃城にも立ち寄りつつ沼田城へ向かいました。
沼田城は、天文元年(1532年)に沼田万鬼斎顕泰が築いた城です。昌幸が調略を駆使して沼田城を落城させたのが、天正8年(1580年)。利根川に面し街道筋にある要衝だったため、その後も上杉・真田・北条の沼田城争奪戦が度々繰り広げられました。
いったんは北条家が沼田城主におさまりますが、小田原攻めで滅亡したあとは信之の城に。
5層もの天守閣を持つ雄大な城が築城され、91年間にわたり真田家の居城となりました。
現在の沼田城は沼田公園として整備されています。
沼田城へ向かう道は、車でも不安になるほどの急坂。公園に入って一巡りすると、利根川に向かう台地の先端に位置しているため眺望良好。天然の要塞だということを実感できます。
沼田公園の散策を終えたら、少し坂を下ったところにある榛名神社(はるなじんじゃ)へ。沼田城を築いた沼田万鬼斎顕泰が現在地に造営し、その後元和元年(1615年)に信之が改築しています。
本殿の御扉の上には真田家の家紋の六文銭があり、目にしてみたかったのですが通常参拝する位置からは見ることができず残念。
参拝するときに真田家も拝ませるという意図があったそうです。
ちなみに、榛名神社オリジナルの御朱印帳がこの秋から登場しています。御扉上の六文銭とその上下の絵を撮影したものを下絵にしたものなので、『真田丸』参拝の記念によさそうです。
最後に訪れたのは、戸鹿野八幡宮(とがのはちまんぐう)。
鎮座は享禄3年(1530年)8月15日。沼田万鬼斎顕泰が沼田城を造るときに、城の南の守護神として後閑八幡宮を勧請したものだと伝えられています。
社伝によると「天正8年(1580年)に真田昌幸が出陣に際して祈願」とあるので、沼田城を攻略するときに戦勝を祈願したことになります。
城の守り神に落城を祈願するとは、さすが昌幸なかなか太い男ですね。結果的に八幡さまが昌幸を選んだ、ということなのかもしれません。
昌幸が無血開城をなしとげたあとは、代々の城主に武神として崇敬されてきたと伝えられています。
場所は沼田城址から南へ3km、車で10分ほど走った利根川沿い。
細い道沿いで、『真田丸』ののぼりがなければ通り過ぎてしまうような小さな社でした。
現在の社殿は、竣功時の棟札によると万治元年(1658年)に5代沼田藩主の真田信利により造営されたものだそう。そのおよそ30年後に信利は、江戸幕府に領地を没収され沼田城も破却。城の守護神だけがいまも残されています。