山口県下関市は、本州のもっとも西に位置しています。
関門海峡を挟んで九州に面し、朝鮮半島にも近いことから海上・陸上の交通の要所として栄えてきました。
そんな下関に、毛利元就が寄進した拝殿を持つ住吉神社(すみよしじんじゃ)があります。延喜式神名帳の式内社であり、長門国の一宮、旧社格は官幣中社という由緒ある神社です。
「日本三大住吉」のひとつにも数えられ、鎌倉時代には源頼朝をはじめ、歴代将軍に社領などの寄進を受けてきました。
こちらの神社の社殿は、実に堂々としたもので、本殿は国宝、拝殿は重要文化財に指定されています。
社伝によると、この本殿は応安3年(1370年)に大内弘世が、拝殿は天文8年(1539年)に毛利元就が寄進したものとされています。
毛利元就は弘治3年(1557年)に大内氏の当主義長を討ち取っています。
敵同士の社殿が並んでいるのはなぜなのでしょうか?
大内氏は百済の聖王の第三王子の子孫と称し、最盛期には山陽・山陰と北九州の6か国を統治するほど強力な勢力を持っていた氏族です。
拝殿を寄進した当時、毛利家は大内家に従属することを明らかにし、当時の当主、大内義隆の申し出で、官位も授かっています。
しかし、義隆は家臣の謀反で殺害され養子の義長が当主に。元就は、これを容認し義隆の勢力を攻撃しています。官位を授かった恩はいずこに・・・。
さらに、その後の弘治3年(1557年)に、元就は義長を討ち取っています。大内氏は結果的に元就に関わったおかげでほろぼされたことになります。
住吉神社に元就が拝殿を寄進した経緯をうかがってみると
「はっきりしたことはわかっていませんが、本殿を寄進した大内氏を対抗視したのではないかと考えられています」と教えていただきました。戦国時代きっての智将といわれた元就のこと、従属したと見せかけて、拝殿を寄進した当時から実は大内氏をロックオンしていたのかもしれません。
東照宮とは徳川家康公を東照大神・東照大権現として祀る神社のこと。
もっとも有名なのは世界遺産にも登録された日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)ですが、ここ久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、家康公みずからが埋葬地として選んだ場所で、最初に創建された東照宮として有名です。
晩年を駿府で過ごした家康公は、駿府の南東にあり、海に向かう景勝地・久能山を愛していたのでしょう。
亡くなる直前に家臣を呼び、「遺体は久能へ納めること」という命令をくだしています。
これを受けて創建されたのが、いまの久能山東照宮です。
大工棟梁に選ばれたのは、家康公が全幅の信頼をおいていた中井正清。
徳川の威光を見せた二条城の建設や伏見城の改築、法隆寺の大修復、のちに日光東照宮なども手がけた人物です。それらの建築物には、国宝や重要文化財、世界遺産がズラリ。当然、久能山東照宮も、当時最高の建築技術や芸術が結集されました。
極彩色の彫刻や絵で彩られた社殿群は、目がくらむような華やかさ。
本殿と拝殿は、中井正清晩年の傑作として国宝に指定されています。
さらに、久能山へ行くまでには海と富士山を望む日本平からロープウェイでアクセスできるのもステキです。
NHK大河ドラマ『真田丸』見てますか?
草刈正雄演じる真田昌幸がいい味出していますよね。
眞田神社(さなだじんじゃ)は、上田城の本丸にある神社で、真田昌幸公・幸村公をはじめ、代々の城主を御祭神としてお祀りしています。
上田城は、天正11年(1583年)に真田昌幸によって築城された平城です。
第一次・第二次上田合戦では、徳川軍の猛攻を二度にわたり真田軍が撃退しました。
真田昌幸公が徳川家康にそむくかたちで起った第一次上田合戦では、徳川の兵約7000人に対し真田約1200人。
関ヶ原の合戦の前哨戦となった第二次上田合戦では徳川約3万8000人に対し、真田は約3000人。
圧倒的な兵力の差があったにも関わらず攻略を防いだため、難攻不落の城といわれるようになりました。
上田城の城主は、時を経て真田氏から仙石氏、松平氏へと替わりましたが、上田のシンボルとして親しまれていました。
しかし、明治維新後、政府の方針により城の建物や土地が売却されることになってしまいます。このときに、上田城を残したいと立ち上がったのが土地の人々。売られた土地を買い取り行政に寄附する篤志家・丸山平八郎氏が政府から土地を買い戻して、本丸に代々の藩主を祀る眞田神社が建立されました。
現在の上田城跡は、眞田神社以外にも抜け穴があるとされる真田井戸や復元された櫓門、掘と土塁などを見てまわることができます。