平安時代前期の学者・菅原道真公を祀るのは、天神信仰の神社です。
「天満宮」「天神社」「菅原神社」のような名称を持つ天神信仰の神社は、その数なんと約1万2000社。ローソンと同じくらいの数があるといえば、その多さが実感できるでしょうか。
道真公は、神童といわれた幼少期から学者の最高位である文章博士になり、宇多天皇に認められて右大臣まで上りつめ、家格からは異例ともいえる大出世を果たしました。
その後、藤原氏の策略により都から遠く離れた大宰府に左遷され、悲嘆のうちに亡くなってしまいます。
しかし、天神信仰がここまで広がったのは悲運の学者だったからではありません。死後、すさまじいたたりが相次いだためです。
道真公を陥れた派閥の人物が相次いで変死し、あげく宮中の清涼殿に落雷があり雷の直撃で政敵が死亡。事件のショックで醍醐天皇も崩御されたと伝えられています。
道真公の怨霊にふるえあがった都の人たちが建てたのが京都市上京区の北野天満宮(きたのてんまんぐう)。北野の地に古くからの天神信仰の神社があったこと、落雷によりたたりをもたらすことから、いつしか道真公が「天神さま」と呼ばれるようになったとか。以降、大災害がおこるたびに道真公のたたりとしておそれられ、天神信仰が全国に広まることになったのです。
怨霊として恐れられていた道真公が学問の神さま・詩歌の神さまとして崇敬を集めるようになったのは平安時代末期。
江戸時代には、道真公をモデルにした浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)が人気になり、現在のように受験生たちの神さまとして信仰されるようになったのです。
柿本神社は、飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂公を祀る神社で、西日本を中心に数社が存在しています。
人麻呂公は、三十六歌仙のひとりで万葉集の代表的な歌人であることから、詩歌の神さま・学問の神さまと慕われてきました。
その地位をふくむ伝記や生没年は残されておらず謎に包まれた人物だとされてきました。
ところが、島根県益田市の戸田柿本神社(とだかきもとじんじゃ)では、古代から続く語家(かたらい)であり宮司を代々になう織部家が、1300年の時を超えてその誕生説話を伝え続けています。
それによると、人麻呂公は柿本氏の男性と織部家の女性の間に生まれ、子どものころから人間離れした神童だったと伝えられています。大和朝廷に召し出されたのは30歳ごろ。亡くなるまでに、たくさんの詩歌を残しました。万葉集の100年後に編纂された古今和歌集の序文では、山部赤人とともに歌聖(うたのひじり)と称えられています。
歌の神さまとして神格化されるようになった人麻呂公は、「ひとまる」の語呂合わせで「人、生まる」として安産の神さま、「火、止まる」として火除けの神さまとしても信仰を集めています。
菅原道真公、柿本人麻呂公に続いて有名な学問の神さまといえば、二宮尊徳翁ではないでしょうか。
二宮尊徳翁は江戸時代後期の農政家・思想家で、薪を背負って本を読む幼少の金次郎時代の銅像が有名です。二宮尊徳翁を祀る神社は、生地の神奈川県小田原市に報徳二宮神社(ほうとくにのみやじんじゃ)、終焉の地の栃木県日光市に同じく報徳二宮神社、ほかに栃木県真岡市の桜町二宮神社、神奈川県相模原市の二宮神社などがあります。
尊徳翁が広めた報徳思想は、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると解く、経済と道徳の融和を訴えた思想のこと。いま重要視されている企業のCSRにも通じる考えで、実に先見の明がある人物だったようです。
尊徳翁は、百姓の長男として生まれ、幼いころに父の田畑が暴風雨により田畑が流され家が没落、14歳で父親が16歳で母親が過労により死去。逆境にも負けず、家を再興するために必死に勉強し、荒れ地を開墾して収穫を上げて24歳までに家を再興しました。
小田原服部家の財政再建を皮切りに、村や藩の復興事業を600箇所以上でおこない貧困から救ったほか、いまで言う信用組合の仕組みを世界に先駆けて作り実行しています。勤勉さとずば抜けた先見の明をもち、その能力を農村の人々のために尽くした尊徳翁は、神格化されるのも納得の偉人だといえるでしょう。