吉田松陰の妹・文(後に美和と改名)を軸に、新しい時代の幕開けを描いた『花燃ゆ』。
これまでの幕末ドラマでは、江戸城の無血開城あたりで最終話を迎えるものが多かったのですが、文を主人公に据えることで、産業革命を迎えて人々の暮らしが激変していく様までも描いたのが新鮮な印象でした。
『花燃ゆ』の最初の大きな山場となったのが、松下村塾の開塾から吉田虎次郎(松陰)の死までのくだり。
松下村塾に集ったのは、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿など、本当にそうそうたる顔ぶれです。後世に名を残す人々に師とあおがれた松陰は、ご自身も松陰のファンという伊勢谷友介さんが熱演されていました。
松陰神社(しょういんじんじゃ)は、松下村塾の地に建立された神社です。御祭神は、吉田松陰こと吉田矩方命(よしだのりかたのみこと)と、久坂玄瑞命、高杉晋作命ら塾生たち。
境内には松下村塾の建物や宝物殿至誠館などもあり、『花燃ゆ』の世界にたっぷり浸ることができます。
松陰の死後31年が経った明治23年(1890年)に、松下村塾の改修の際に杉家の人々により松陰の御霊を祀るほこらが建立されたのが神社の前身です。
明治40年(1907年)に伊藤博文らが、このほこらを神社として創建するべく、嘆願書を山口県に送ったところ、当時の社格で県社として認められ松陰神社が誕生しました。
美和が楫取素彦と再婚して7年後、松陰の弟の杉民治が松下村塾を閉じる2年前のことでした。
開国を迫る諸外国の圧力が強まるなか、長州藩は藩内各地に砲台を設置します。
文久3年(1863年)5月10日には、下関海峡をはさんで対岸に停泊していた上海行きのアメリカ商船・ペンブローク号を船上と沿岸砲で攻撃。
いよいよ攘夷が実行されたこの作戦で、指揮を執ったのが文の夫・久坂玄瑞でした。
反撃に出た各国の砲弾は、圧倒的な火力で長州は敗退したものの、亀山八幡宮(かめやま八幡宮)にあった亀山砲台への敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷がなかったそうです。
「これ八幡大神の御神意なり」といわれ弾よけ八幡とたたえられました。
境内には碑文が残るのみですが、そばにあるみもすそ川公園には、レプリカの砲台が置かれており、当時を偲ぶことができます。
『花燃ゆ』のなかで、熱い存在感を放っていたのが来島又兵衛。
武士道を重んじる豪傑で戦好きな人物として描かれており、又兵衛役の山下真司さんは、公式サイトのインタビューのなかで「以前演じた『スクール・ウォーズ』の泣き虫先のように熱血的」に演じたと語っています。
来島又兵衛をはじめ長州藩の幹部たちが軍議を開いたのが京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)です。
進軍派の急先鋒だった又兵衛に対立するのが、文の夫・久坂玄瑞。援軍なしで御所に攻め入るのは時期尚早という玄瑞らの意見は、「卑怯者!」という又兵衛の捨て台詞により、進軍に傾くことになります。結果、「禁門の変(蛤御門の変)」が開戦し、長州は惨敗。又兵衛も玄瑞も命を落としてしまうのです。
石清水八幡宮が軍議の場に選ばれたのは、京都と大阪を結ぶ交通の要衝だったため。男山の山頂に鎮座する石清水八幡宮は、引くべきか、進むべきかの最後の判断が下された場所だったのです。