金沢には兼六園をはじめたくさんの観光地がありますが、神社と歴史が好きならはずせないのが尾山神社(おやまじんじゃ)です。
場所は金沢城公園のすぐお隣。加賀藩主の別邸だった金谷御殿跡地という一等地です。
それもそのはず、御祭神はこの地に最もふさわしい人物、加賀100万石を一代で築き上げた前田利家公と正室のお松の方なのです。
尾山神社は、明治6年(1873年)に旧加賀藩士により現在地に遷座された神社です。
なぜ明治時代かというと、利家公が亡くなった当時は徳川幕府の目をはばかる必要があったため。
外様大名だった前田家は公然と利家公を祀るわけにはいかず、二代利長公は金沢城の北東にあたる卯辰山麓(現在のひがし茶屋街付近)に、卯辰八幡宮として御霊をお祀りしました。そして、江戸時代が終わるとすぐに旧加賀藩士等により現在地に遷座されたのです。
利家公が家臣にいかに敬慕されていたかがわかるのが、境内のすばらしさ。
神門は和漢洋の要素を取り入れた神社の門とは思えない造りで金沢の観光ガイドで必ずその姿を見ることができます。
また、神苑は旧金谷御殿の庭園を生かしたもので、雅楽にちなむ意匠から「楽器の庭」とも呼ばれる風光明媚なもの。およそ800uの池泉回遊式の庭園は、県指定名勝であり「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」として世界遺産に提案されています。
小豪族の四男だった利家公は、織田信長に仕え「又左の槍」と呼ばれる長槍をトレードマークに頭角を現した剛勇の士。一方で、ともに深い親交のあった柴田勝家と豊臣秀吉による賤ヶ嶽の戦いでは、勝家公についたものの突然撤退し、結果、戦国時代を生き抜くという、戦の流れを見極める目にすぐれた人物だったようです。
「戦場に出でては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し。」
これは利家公の言葉。
数多の難局をくぐり抜けた利家公の人生を思いながら、この地で尾山神社をお参りするのは感慨深い物がありそうです。
金沢城と尾山神社しかり、城や城跡そばには武将ゆかりの神社が多々あります。
大阪のシンボル大阪城にあるのは、豊國神社(ほうこくじんじゃ)。
御祭神はもちろん豊臣秀吉公です。
「日本一出世した男」といえば、豊臣秀吉公に違いありません。
中村(今の名古屋市)の農家に生まれたものの実力主義の織田信長に仕えたことから、出世の道が開けた秀吉公。
信長の草鞋を懐で暖めたというのは有名な話。草鞋の話の真偽の程はさだかではありませんが、才気にあふれる人物だったことは間違いありません。
秀吉公は努力とアイデアで出世の階段を着実に登り続け、小田原の北条市を倒してついに天下統一を成し遂げました。
その数年前である天正11年(1583年)に天下統一の拠点として築城されたのが、大阪城です。
2q四方にもおよぶ巨城の完成には、5、6万人もの人々が動員され15年もの歳月を要しました。完成した城は「三国無双の城」と讃えられた難攻不落でありつつ絢爛豪華なものであったようです。
ところが、慶長20年(1615年)大阪夏の陣で豊臣方が破れたために、徳川幕府によるより大きな大阪城が築かれ、豊臣大阪城はわずかな年月で灰燼に帰すことになってしまいました。
豊國神社が大阪城公園に遷座したのは昭和31年(1956年)。
徳川家の敵であった豊臣家は、秀吉公を神社に祀ることが許されず。明治になってから京都に豊国神社本社を大阪に別社が創建されました。
その後、数度の移転を経て、御祭神である秀吉公に深い縁のある大阪城公園内に移転することになったのです。
「日本一出世した男」秀吉公を祀る豊國神社は、御祭神にあやかって出世・開運のご利益が知られています。近年には、秀吉公の銅像も設置され、大阪城の城主であり大阪の基礎を築いた秀吉公の姿に、親しむことができます。
また、今年は大阪冬の陣・夏の陣から400年の節目の年。これを記念して、大阪城公園や周辺でたくさんのイベントが開催されています。
参拝ついでに「太閤さんのお城」のお膝元で歴史を感じるイベントを楽しんでみてください。