新田義貞公の大宮 藤島神社

■御祭神
御祭神  贈正一位 源朝臣義貞公(新田義貞公)
配祀神  贈從三位 源朝臣義宗卿(新田義宗卿)
配祀神  贈從三位 源朝臣義助卿(脇屋義助卿)
配祀神  贈從三位 源朝臣義顯卿(新田義顯卿)
配祀神  贈從三位 源朝臣義興卿(新田義興卿)
配祀神  新田家一族郎党殉難將士

■由緒・由来
藤島神社の歴史
 新田義貞公の戦没地は福井市新田塚町(旧吉田郡西藤島村灯明寺畷)とされています。万治3年(1660)、松平光通侯によって創建された戦没碑(現今のもの)は水戸侯(徳川光圀)による湊川神社の濫觴となる楠木正成建碑より32年も前のことでした。  
 下って明治3年(1870)、東京では新田義貞公の子孫である新田貞時、横瀬貞篤(新田貞時の分家)、新田俊純はじめ一族旧臣らによって、新田義貞公を祭祀する神社の建設とその列格が請願されていました。 同時期に福井藩主・松平茂昭侯は公の戦没地に一祠を建立(今の新田塚の祠)し、続いて公を奉斎する官幣社としての創建を建議。これは俗に「新田社」とか「新田神社」と呼ばれ、湊川神社の「楠社」や「楠神社」と同様のものでした。 
 明治9年(1876)11月7日、灯明寺畷の祠(新田社)は別格官幣社に列せられて、畏くも明治天皇より「藤島神社」の社名を賜り、新田義貞公を主祭神、新田義宗卿、脇屋義助卿を配祀される旨を仰せ出されました。同年12月15日、同地の仮殿が落成したので、宮中より勅使・桐山純孝を遣わして御霊代を奉安せしめられ、ここに初めて朝廷の祭祀を行わせられました。  
 次いで同11年(1878)1月10日、新田義顕卿、新田義興卿以下、新田一族郎党殉難将士を配祀せらるる旨、仰せ出だされました。  
 明治14年(1881)11月23日、灯明寺畷を南に十三町余、福井市外吉田郡西藤島村牧ノ島(現在の福井市文京4丁目・現福井大学向い)に社殿を新たに建設して遷座祭を斎行。  
 しかし同社地一帯は卑湿の地であり、恐れ多くも濁水が境内神域を汚すことが多々あったため、同31年4月15日に現在の足羽山へ移転することが決定。同34年5月22日、社殿境域の工を竣り遷座祭が斎行。 
 昭和8年10月24日、天皇陛下(昭和天皇)は陸軍特別大演習御統監のため福井県へ行幸遊ばされ、恐れ多くも藤島神社へ御親拝賜りました。 
 さらに、続く昭和13年5月には新田義貞公御殉節600年祭(式年の大祭)が斎行。 
 昭和20年7月19日、戦火のため社務所と宝物殿を除く、御本殿以下諸殿が炎上。次いで御本殿・拝殿などの仮殿が徐々に竣工していましたが、またもや昭和23年6月28日の福井地方大震災にてその仮殿以下諸殿も倒壊。 
 昭和29年にはまず御本殿が復興され、続く昭和31年11月8日、創建80周年大祭を斎行。高松宮宣仁親王殿下の御台臨を仰ぎ昭和32年11月12日に神殿竣工式が斎行されました。


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